明治三十四年三月二十二日東京発、翌二十三日大坂に着したり。 二、三友人停車場に来り迎へ、余が顔を熟視し大に驚きて、余があるいは直に卒倒せざるやとまでに思ひたると、旅館に着したる後に言へり。 宜なり余は去年十一月より頻に咳嗽を患ひ、当時咽喉専門の医の診断には、普通の喉頭加答児なる旨に付き、爾来打棄置きたるに喉頭漸く疼痛を覚へ、飲食共に半減せる中、夜汽車にて来りしが故に、かくは疲労を現したるなるべし。 しかれどもこの時余はやはり慢性喉頭加答児位に考へて打棄置き、四月紀州和歌山の浦に赴き遊ぶこと四、五日。 しかるにこの時よりソロソロ呼吸微促を覚へ、喉痛依然たるを以て、余の素人といへども少く気を遣ひ、あるいは世にいはゆる癌腫なる者にあらざる耶と、因て行李匆々大坂に帰へり、耳鼻咽喉専門医堀内某の診断を請へり。 医例により光線を利用して、仔細検視して曰く、これ切開を要すと。 余是において果して癌腫なりと察し、答て曰く、しからば請ふ一身を托して切開を施されんことを。 既にして余の友人余の請によりて手術の証人たるを諾せし者、書面を余の留守許に発し詳細の事を告げり。 妻弥大に驚き倉皇出発して下坂し来り、余の投宿せる中の島小塚に至れり。 既にして衆皆癌腫切開の極めて危険にして、九死中一生なし、むしろ維持策を取るに如かざるをいひ、余を尼めてやまず。 余固より好みて死を速にせんと欲するにあらず、一息の存する必ず為すべきあり、また楽むべきあるを知るが故に、癌腫切開の方は思ひ止まれり。 而して堀内も敢て強ゐず、やはり危険と考へたりと見ゆ。