これより先余の大坂に来るや、かつて文楽座義太夫の極て面白きことを識りたるを以て、(余は春太夫靭太夫を記憶せり)旅館主人を拉して文楽座に至る。 越路太夫の合邦ヶ辻呼物にて、その音声の玲瓏、曲調の優美、桐竹、吉田の人形操使の巧なる、遠く余が十数年前に聞きし所に勝ること万々。 余素より義太夫を好む、しかれども殊に大坂のものを好む、東京のものを好まず、東京の義太夫は大坂のものに比すれば一児戯に値せざるなり。 その後また越路の天神記中寺子屋の段を聞き、忠臣蔵七段において呂太夫平右衛門を代表し、津太夫由良之助を代表し、越路太夫於軽を代表して、いはゆる掛合ひに語り、更に越路太夫が九段目の於石となせの取遣りを語るを聞き、また明楽座において大隅太夫の千本桜鮓屋の段を聞けり。 それより四月二十日に妻来れるを以て復た共に文楽座に赴き、その後いくばくもなくしてまた赴けり。 故にこの忠臣蔵の浄瑠璃は妻は二度聴き、余は三度聴きて啻に厭はざるのみならず、いよいよ聴きていよいよ面白味を感ぜり、巧なる証拠なり。 けだし津太夫の状貌並にその沈毅の音声、重もくるしき洒落等、正に千五百石赤穂城代たる大石内蔵之助その人を想はしむ。 呂太夫の善く関東音を遣ひ、率直にして勇み膚なる即ち平右衛門その人なり。 もしそれ越路の優美なる音声と婀娜なる曲調とに至ては、於軽を模写する誰れかこれに近似し得る者ぞ、真にこれ戯曲界の一偉観といふべし。 余既に三たびこの偉観に接す、一年半決して促にはあらざるなり。 孔聖いはずや朝に道を聞て夕に死すも可なり。