兆民先生病で泉州境にあり、余を召して至らしむ。 八月四日往て候す。 先生数帖の草稿を蒲団の下に取り、莞爾として余にいひて曰く、わが病勢日に悪しし、意ふに余命いくばくもなけん、もし今にして一言の後人に告ぐるあるにあらずんば、豈に読書の人たるにあらん哉、故に頃来筆を援てこの稿を成せり、我瞑目の後、汝宜しく校訂して以て公にすべしと。 余これを聴き黯然として答ふる所を知らず。 既にして曰く、不敏謹んで命を領す、しかれどもこれを出して世に問ふ、生前と死後と先生において何の択ぶ所ぞ、天下先生の文を想ふ渇するが如し、請ふ直ちにこれを刻するを許せと。 先生哂ふて甚だ拒まず、いふ、惟汝善くこれを図れと。 翌この稿を携へて京に帰り、同門の先輩小山久之助君に諮る。 小山君また大に余の意を賛す。 乃ち大橋新太郎君に托してこれを剞劂に附するを為せり。 一年有半即ちこれなり。 それただ数年の後にすべくして、而して数年の前においてする。 想ふに先生これを以て深く余らを罪せざるべし。
本書毎節附する所の目次は、先生、余に命じて作らしむる所なり。 深く恐る、蛇足狗尾、編中の趣旨と相副ふを得ずして、而して先生の意に満たざる者多からんことを。
先生政界を辞して後、多く筆硯と親しまず。 ただ明治三十一年一月より四月に至るの間、雑誌『百零一』に掲ぐる所の論文四篇、及び明治三十三年十月より本年三月に至るの間、『毎夕新聞』に寄する所の論文数十篇あり。 今その散軼を恐れて、これを巻末に輯録せり。 その剪裁次序の如きは、責一に不才にあり。
先生の小照、甚だ多からず、家に存する所、皆な壮時の物にして、本書挿む所はその一なり。 けだし仏国留学中の撮影に係る。
明治三十四年八月十八日
門生 幸徳秋水 拝識